チクリと言われたはずなのにすっぽり忘れていやがる
2022年 3月 4日(金) 入院五日目
昨日の中途覚醒しんどくてしんどくて。
再び寝入るのが難しかった。
で、午前は風呂まで寝てた。
やはり糖分摂らなきゃ目が覚めねぇべ。
風呂であの、因縁のJKの姿を見かけてダメになった。メンブレ。
約一年振りに彼女の姿を拝んだが、前回の入院によるトラウマをまだ引きずっているみたいだ。
黒木ちゃんに少し話したんだ。JKさんが苦手です、ってね。そしたら、その話が黒木ちゃんからそのてぃん(大学時代に"そのてぃん"と呼ばれていたクラスメイトがいたのだが、驚くほど顔も声も話すテンションの高さも似ている看護師がいる)経由で「JKさんじゃなくて三郎丸さんを視てあげて!」と言ってくれたらしい。春川先生に直々に。
「お節介焼いちゃった」と病室まで報告にきてくれたそのてぃんに、気持ちに寄り添ってもらえて嬉しいのと悲しみのフラッシュバックで泣いた。
中にもいたくないし、外にもいられないの。
どうしたらいいのか分からない。
周防看護師さんがわたしの髪を乾かしてくれた。
ずっとわたしの隣でドライヤー使ってるのを見張ってるもんだから、焦って生乾きで終わろうとしたんだよね。わたしの髪は結構水分をもともと含んでる方だから、乾かすのに苦労したろうな。周防看護師も、お子さんがわたしと同い年だって言ってた。わたしは、まるでおばあちゃんの家に泊まりに行った時に「棟子ちゃんの髪の毛乾かしてもいい?」と、おねだりされた時のような気分に浸っていた。
入院治療計画書みたいな書類をやっとこさ渡された。(前回もっと早くから書類くれたのに)
主治医とか薬剤師、相談員とか担当者の名前が書いてあるんだけど、わたしの担当看護師、吉津さんかよ……やだな〜〜!
主治医が診察のために病室に来てくれた。わたしはまだ診察室まで出してもらえないからね。
前回の入院の前からずっと、先生は「とある10代の女の子がね」「とある16歳の女の子が」と具体的な事例を挙げてお話しなさっていたこと、それが診察のたびに毎回行われていたこと、わたしを安心させるために話してくれたエピソードだと思うがわたしは傷ついていたこと、わたしが目の前にいるのにわたしを通してJKちゃんを視てる。わたしの診察の時間なのに、いつも春川先生の心はJKちゃんのところにあるんだ!と話すことができた。
そのてぃんが騒いでくれたおかげで、自ら話す勇気が湧いたんだ。倫先生も寄り添ってくれたし。
でも、この恨み妬み嫉み、なんて醜い心なんだと、自分でも思ってたからずっとずっと、一年ほどひた隠しにしていたんだ。それを全部吐き出しちゃった自分に嫌気がさして泣き出した。
終いには、先生に向かって癇癪を起こして「殺して!殺してよお!死にたい!」って騒いだけど、春川先生は特に歩み寄ってくれるわけでもなく「生かしたい」と言われただけ。ほざけ。
リスパダールを頓服にもろたけど液体じゃないんかい!
飲んだあと、あまりの眠気に耐えられずケータイが手渡されたことにも気が付かずで、ケータイ持ったまま30分うたた寝してた。
看護師が回収しに来てはじめて今が19:30、つまり携帯時間の終了だってことを知ったんだな。
誰にも何も、連絡できずでした。
病食のちらし寿司でひなまつりの訪れを知る
2022年 3月 3日(木) 入院四日目
昼にも一度癇癪来て早めに昼食後のエチゾラムをもらった。
また昼食の忙しい時に癇癪の波が来て看護師さんにヘルプを出すことになったので、余計に情緒がギャーギャーときた。
道具がないから誰かに首締めて欲しいって思ったの。自分の首元に自分の手を掛けてみて、もう誰も何もタオルもわたしを殺してはくれないんだ、と思ったら恐ろしくなったんだ。
黒木さんが「部屋の電気消そうか?」と言ってきた。でもでも、昨日の騒動でわたしは消灯時間までは消灯禁止に(とはいえみんな点灯されてるんだけどね。ふつうは。わたしが快適じゃないから、貸してくれってお願いをしていただけであって)なったんじゃないか、って思った。ここで黙って電気つけてもらってもよかったけど、ナースの黒木ちゃんはダサい伊達みたいなフレームのメガネも掛けこなしていて、第3病棟のナースの中では一番ルックスが好きだ。わたしはね。だから、あんまり黒木さんの過失にしたくなかったわけだ。電気を消していただけることを。それで正直に伝えた。「電気は消させてもらえないって昨日言われたんですけど」
黒木ちゃんはちゃんと他の看護師さんに確認してくれたみたいでわたしの部屋に戻ってきた。申し訳なさそうに、てへぺろってな感じで「だめやったみたい。ごめんね」と言った。黒木ちゃんから言われたら、何も嫌な感じがしない。
すべて、昨日のわたしのせい。
師長が春川先生と会えるのは明日だって言うからまた癇癪きてエチゾラム1mg飲んだ。
今まで「死にたい」をODや自傷で発散してたし、そうなる前に音楽聴いたり映画見たり気を逸らして誤魔化してたんだ。その術を(道具もな)奪われた今、わたしはひどい癇癪に、日に何度も襲われている。
わたしは壁に頭を叩きつけ、申し訳程度のたんこぶを作った。痛いだけで、こぶにもアザにもならなかった。300回数えて、容赦なしに壁に額を打ちつけたけど、それでも自分を傷つけてやったという満足感を得られず「これ以上やっても無駄だ」という思いの方が先に来てしまった。
こんなに願っても春川先生には会えないのがつらくって癇癪起こして、ついには呼んでもらったよ。
ナースコールを押して、先生に会いたいのに会いに来てくれない。昨日自殺未遂までしたのに、つらくて顔が見たいのに、師長には明日しか会えない(つまり、もう以後今日中期待するなという意味だ)と言われてしまうし。「今日春川先生当直なさる日ですよね?先生と話したいです」と言って泣いた。
自殺するほどしんどいのに、「わたしは見放されたんだ〜〜〜〜!!!!」とギャンギャン典子さん(親戚のノリコのお母さんに雰囲気似てるな〜と思ったらご本人の名がノリコさんだったのだ)に言った。典子さんはベッドの横の椅子に座ってわたしの泣き喚きを聞いていた。わたしの腕を撫でながら「頼んではみるけど、無理かもしれない。今はね、コロナでこの病棟は回らないのよ(前回の入院の時は回っていた様子だったが、わたしが退院している間に入院患者にコロナ感染者が出たらしく、あとあとから知るが、1年前とはまた違うコロナ対策をしていた)」「春川先生が来られなかったら、その時はお話聞くの、看護師さんでもいーい?」
わたしは親戚に似ているというだけで典子さんには信頼感を一年前から抱いているので「もちろん。先生がダメなら典子さんでいいです」と言った。
春川先生呼んでくれた。LOVE♡
図らずも派遣されてしまいわたしの病室を訪れた春川先生の内心はきっと「やれやれ」だっただろうな。
典子さんはわたしにはやさしく声をかけてくれたよ。でもね、先生を呼ぶ時には、どうにも手がつけられないんでなんとか来てはくれまいかというような具合だったらしい。
「行こうかな、とも思ったよ。昨日のことも、注射されたことも、全部聞いとる」
わたしは心底驚いた。情報が先生の元に届いていないから、会えないんだと。わざわざ会いに来てくれないんだと思ってた。
「でも知った上で来なかった。心理的に依存しすぎないように、会いすぎないようにね(先日渡したラブレターに、入院期間中はとにかく先生のことで頭がいっぱい(好きすぎて夢中という意味もなきにしもあらずだけど、純粋に文字通りの意味で)だったと書いちゃったからね)。僕も心を鬼にしてたんだけどね」と少し呆れたニュアンスをさせながら言った。
「もう伝えとこうかな、と思うんだけど。来年も僕が診ます」
来年も続行だって♡よかった〜〜〜〜!
そう、大好きな主治医はるきゅんとの離別が苦しすぎて、それがきっかけで今回はコロコロと体調を崩してどん底に落ちていった。不安要素が一つ、減った。
この喜ばしき発表をするタイミングを、先生は結構慎重にしていた様子であるというのが、退院後父と話したときにわかった。
この日、実は父は家族面接という形で外来に訪れていたそうだ。
父はここで「状態が良くなるまで出さないでくれ」と頼んだことをわたしの前で堂々と宣言していた。入院したいって相談したときには「入院はしてほしくない」と言っていたのに。なんてこったい。
父はここで先生に、自分が長期出張に行くという話を明かしたそうだ。それについて主治医は「お父さんも失って、僕(医者)もいなくなって」で散々だったろうとわたしに言った。いやあ、父の転勤には慣れっこですし、なんなら転勤してくれた方が良かった。なんて考えてしまうわたしは、悪い娘である。
来年も続投であることについて「娘さんにもうお話ししてもいいでしょうか」と謎の質問をしてきたという春川先生。そんなもん、一秒でも早くはるきゅんロスなら打ち震えるわたしに教えてやってくれ。
食べていません。自殺をしているところです。
ここからは簡単だ。だって日記帳に記録をつけていたからね。もう記憶だけを頼りに闘病記を書くことはなくなった。
2022年 3月 1日(火) 入院二日目
師長に血を抜かれる安心感たるや。(採血をされた)朝の5:30だった。前回入院した時も、朝っぱら突然起こされて血を抜かれたなあ。
わたしはいつも看護師を悩ませる血管の細さを持ち合わせているが、師長が「いい血管が見つかった」と左腕に教えてくれた。しかし、全然血が出てこないと言われた。「圧がないんだろうな」と言うんだ。たしかに、高血圧か低血圧かといわれれば、かなり低血圧だと思う。なるほど、血圧って採血の勢いにも関わってくんのか。結局右の手の甲からも血を抜いてもらった。もう注射なら何べんでも刺してもらって構わないので、焦らずゆっくりわたしの血を抜いてください。看護師を慌てふためかせ、泣かせるのはいつものことだ。
倫先生が来てくれた。薬剤師の田中倫子さん。実は同姓同名の上司が職場にいてね。それで、昨日の診察室で「薬剤師の田中さんエチゾラム持ってきてぇ」と泣き喚いていたわけである。
その噂を聞いてご本人が駆けつけてくださったわけだ。ただの薬剤説明に来てくれただけなのだが、「名前覚えててくれててうれしい」と喜ばれた。うちの職場にも田中リンコがいるんですということを話した。そしてわたしは「うちの田中リンコさんはリン先生と呼ばれているので、よかったら同じく倫先生と呼ばせていただいても……」となり、今回この薬剤師さんとかなりお近づきになれてのがよかった。わたしは、この時はまだはるきゅんが送ってきた刺客だと思っていたけど。別にそう言うわけでもないらしい。倫先生直々に、だ。午前中少し顔を合わせて話をしたら「また午後に会いにくるからね」と言ってた部屋を去った。昼食を食べ終えたらまた倫先生は来てくださって、薬局は暇なのかなんなのか知らないけど。一時間近く世間話をした。
世間話もあれば、薬に関することを話したりもしたし。それも深く、わたしはいつもどのようにして薬を飲んでいるか(つまり過量服薬)どうかを説明してしまったり、医者に報告してないことも倫先生には喋れた。取材には伝えるタイミングがなかっただけで。倫先生にはもちろん「ここで聞いたことは春川先生にそのままお話ししてもいいです」と情報開示の許可も出した。
「わたしはサラ・コナーをやめます」と宣言した。
昨日からずっとサラ・コナーのたとえを気に入ってる。主治医の前でも披露したし。いい子ちゃんをやめたわたしを、病院はどう扱っていくんだろう、って。
OCTっていうんですか?市販薬のこと。
それから自分の身の上も話したな。わたしがこうなったのは、たぶん機能不全家族に育ったせいだから、そのことを詳しく話してたら、小さな子どもが父親と母親との間を取り持つために翻弄していたというわたしのエピソードに、倫先生は涙しながら聞いてくれていた。わたしの話を聞いて泣いてくれた人ははじめてだ。倫先生が泣いているのを見て、これまでのつらさを受容してくれる人がここにいたんだ、って安心してわたしも泣き始めた。
わたしはますますヒートして、自分の深い部分を話し始めた。
別ブログには散々悪口を書いた『はるきゅん♡JK患者』の問題である。わたしの診察時間なのに、いつも別の患者の話題で持ちきりで、なんだか先生はわたしを通して、JKである彼女を見つめて治療してるんだ、って。
ここからがみなさんお待ちかねのこのコーナーです。
第3病棟ちゃんのまた自殺に失敗しちゃいましたよのコーナーです。なんと評判のこちら、もう四度目の未遂失敗を明かしております。
どうしてわたしがこうなってしまったかの一部始終をここに記しましょう。
わたしは、微睡んでいたのかも。この日はずっと幻聴がしていた。
わたしがついに参ったと感じた幻聴は次のようなものだった。
わたしは目が開かなかった。なんとなく病室にいるのも感じてる、この目の開かない感じは。幽体離脱しそうになって金縛りにあっている時と一緒だ。視界が明瞭じゃないんだ。
目が見えないから、気配に感じるしかないけど。わたしの右の枕元に父がいた。椅子に座っていて、わたしの見舞いに来たようで努めてフランクに挨拶をしてきた。
「この二人は誰でしょう、特別ゲストを連れてきた」
父の声の後に続いてガヤガヤと喋る二つの声。
「そのデブの声は井上さんで、その声はどう聞いてもハシケンでしょ」
父ともうずっと何十年と交流がある先輩と後輩だった。幼い頃は父の娘だというだけでよく可愛がってもらった。思わぬメンツだった。末期癌でもないのに意外な人物がサプライズで病室にやってくる。
わたしはパチリと目を開けた。枕元には父も井上さんもハシケンもいなかった。
病室には、わたしひとりしかいなかった。
暗い病室。
わたしが望んだことだった。
蛍光灯が昼間についていると視界が眩しすぎて心が休まらないから、日光の光がある間は消灯して欲しいと頼んだんだよ。
扉の窓から差し込んでくる廊下の明かりで、夜も十分に生活できる。
わたしは焦った。ああ、また幻聴が来ちゃった。もう、これは参った。わたしの負けだと思った。
こんなことが続いてたんだよね。具体的に何が聞こえたかは忘れてしまったけど。
幻聴が聞こえてね、わたしずっとひとりで、その幻聴とペラペラおしゃべりしているの。
わたしはナースコールを押した。
現れたのは、サバサバしているタイプの看護師さんだった。
「幻聴がすごくて参ってしまって」不穏なことを伝えた。ここで一言でもいいから、不安だったね、って言って欲しかった。そしたらわたしは、首なんか吊らなかったかもしれない。
吉津看護師は「頓服飲む?」と扉の外から訊いてきた。わたしは首を振った。
「わたしは統合失調症じゃありません。幻聴なんて初めてです。頓服飲んでも幻聴は止まりません」
看護師さんは「話聞いてあげたいけどごめんね、いまから夕食誘導で今忙しいんよ。夜の薬を早く飲んだりしてもいいけど、どう?」
一度は断って一人にしてもらった。
看護師さんに相談しても不安を受け止めてもらえなかったというショックから、さらにわたしの不安は深くなっていった。
もう一度ナースコールを鳴らす。またもやってきたのは吉津看護師だった。「やっぱり頓服ください」と言った。
看護師は「頓服と夜のお薬一緒の入ってるから、夕食分先に飲もうかね」と言われた。
「ごめんね、お腹空いたら患者さんを待たせるわけにはいかないからね」そう言って吉津看護師はさっさとわたしの前から消え失せてしまった。わたしは、『忙しい』という言葉に過剰反応してしまったことと、わたしひとりの不穏と患者のみなさまの空腹を天秤にかけ、わたしの優先順位が(当たり前だが)下がってしまったことについてよけいに困惑した。
頓服がわりに夕食後薬を早めに飲んだが、それでも悲しみ、癇癪が治ることはなかった。
もう一度看護師さんが来たら、本当に不安なんだと訴えようと思ったのに。トイレに篭っている間に夕食が部屋に配膳されてしまったようだ。
トイレから出た。トイレに行ったのは、これから自殺を決行するためでもあった。
スケッチブックに遺書を書いた。
ブタのぬいぐるみ、妹が同じ空間にいるのは嫌だった。わたしが彼女をPTSDにしちゃったかもしれない。
わたしは部屋にあるタオル掛けのようなところにバスタオルを結び、その輪の内側から首を突っ込んだ。タオル掛けにしてはずいぶん高い位置に存在しているが、とはいえ足は着く。わたしは少しずつ自分の膝を曲げて、タオルに自分の体重をかけていった。涙と鼻水で顔がぐしゅぐしゅなのと、苦しすぎて思わずグエーとかグオーとかいう声が漏れ出てしまうのだが、上手く声帯を潰しているようで、自分のものとも思えぬほどに野太い、孤高の化け物みたいな切ない鳴き声が出る。
酸素が急に失われていく感覚や、立ちくらみの感じ、特に最後に強く失神しそうだと感じた時には、目の前には黄金のモヤが見えかかり、三人の菩薩が視界に並んでわたしを待ち構えていた。この後、もちろんこの自殺未遂がバレて部屋に持ち込めるものがほぼ書籍のみとなってしまい、聖書しか残らなくなっちまうのだが、ああやっぱりわたしは生まれが仏教徒だから、仏教の世界に行くんだね、って思ったよ。しかしね、気絶なんてわたしは人生で一度もしたことがなくて、なんだかすごく怖いことのように感じたんだ意識を失ってしまうことがね。それで何度も足に力を入れ直して体重の預け具合を調節しながら、徐々に徐々に首に体重を乗せていった。
しかし、次の瞬間には自分が病室の床の上にぶち転がっててびっくりした。わたしは「なんで生きてるの」って泣いた。首を引っ掛けてたタオル掛けがわたしの重さに耐えかねて折れたらしかった。
しばらくそのままなるようにして倒れていたが、また自殺をやってやるぞ、という気持ちになった。
立ち上がったわたしはもう一方のまだ残っているタオル掛けに手をかけて、焦って自分の首を引っ掛けた。結び目が不十分で上手く体重が乗らない。
そうこうしていると食事を運んできてくださった吉津看護師が「ご飯食べた?」と部屋に入ってきた。
「食べていません。自殺しているところです」とわたしは答えた。
「自殺とかせんで」デッケー声で吉津看護師は行った。タオルを身包み剥がされる。ベッドに連れて行かれて座らされた。
「もうそういうことする人には物置いとけないからね。わかってるよね?」
怒った。吉津看護師は怒った。わたしの心の中で何が怒ったのかも知らないで。
あなたの『忙しい』って言葉とセカセカとした態度から、わたしはモーレツに、忙しい時間にお手間を取らせてしまった申し訳なさと前回の入院で漠然と感じていた「わたしはここでケアを受けてはいけない」というある種の妄想的な被害妄想が、ついに現実になった。わたしはここにいてはいけない、邪魔だし、わたしはここでケアも受けられない。誰も「何を聞いたの、どうしたの」って誰も尋ねちゃくれない。
「もうそんな人の部屋には電気もつけます。自殺とかする人には怒る」とその人は大きな声で言ったんだ。ああ、わたしは女のでっかい声が、苦手だったんだなあ。
鬱の時、吉津看護師の言動はわたしの自己肯定感を自然と削っていくよ。彼女の言葉は紙やすりだ。
「夕食はどうするの?」と尋ねてくる吉津さんにわたしは「食べる気分じゃありません!」と金切声で返していた。
わたしは、その後病室でひとりにされた。ほっといてくれるんだ。
でもわたしの癇癪は治らなくて、ベッドの上に頭を叩きつけて、自閉症の子どもの自傷みたいなことをしていた。そしたらそれも吉津看護師が部屋に飛び込んできて「ドンドンするのやめなさい頭打ちつけるの」と怒ってきた。
次に吉津看護師がわたしの部屋に訪れた時には、男性の三根看護師を連れていた。
わたしが暴れ狂うとでも思っていたのか。
吉津さんは言った。「当直の先生にもね、興奮が止まらないって様子をお話ししたらね、鎮静する注射打ったったほうがいいかもって」
三根さんはその背後で「楽になるからね〜」みたいなことを言って和ませようとしている。
「お尻と腕どっちがいい?筋肉注射だからお尻の方が痛くないと思うけど」吉津看護師が問う。
「腕がいいです。お尻は汚れてると思うので」
「わかったわかった、生理だもんね」
なんで筋肉注射如きで痛みにビビって尻出さなきゃならんのだ。
「痛くて構わないんです」
痛い方がもっと良い。
「腕でいいんです、痛くても楽になるなら、その方がいい」
わたしはまだ癇癪が止まらずに泣きながらお願いした。とにかく心の苦しさをなんとか落ち着けて欲しかった。
左の腕に注射をされた。あれが一体なんという注射なのか、知りたいけどみんな頑なに商品名は言わない。
わたしはその後、しばらくしてすぐに眠りに落ちた。
死んでもいいから苦しみをなんとかして
おひさま病院に着き、扉が開いたらそこには主治医と、看護師の林田さんが車椅子を準備して待機していた。
歩けますか?という救急隊の問いに「歩きたくないです」と首を振ったら、次の瞬間には車椅子の上に座らされていた。車椅子に乗ったのは生まれて初めてだ。ということを想起する間もなくわたしは診察室に運ばれていた。いつも受付看護師で世話になっている林田さんに車椅子を押されながら。
わたしはずっと喚いていた。
「応援呼ぶなら、由美さんがいいです、親の友人なので。あと川島さん、緒方さんもわたし知ってます」なぜだか。覚えのある看護師の名前を列挙してここに呼びたがった。この後何か応急処置を受けると思っていたのに。これ以降看護師がこの場に来ることはなかったのだが、わたしはこの先しばらく院内で手隙の看護師探しが起こっているのではと想像していた。
医者が「過呼吸だね」と言われた。で、ずっと放っておかれた。わたしの隣でただただずっと喋っているだけの主治医。
主治医に「過呼吸はね、あと3〜40分続くよ」と言われ何もできる処置はないと言われたのだ。
「なんか注射みたいなのもしてもらえないですか?眠らせる注射」
「ちょっと無理だねえ」
「じゃあ!エチゾラム!!エチゾラム10錠くださればわたし、気絶、できるって。知ってるんで。それで眠らせてください。観望するかも、しれないけど」
その言葉を聞いて主治医がエチゾラムを持ってくるように伝えた。エチゾラムはこの一年世話になった馴染みの薬だ。みな喉から手が出るほどデパスの処方箋を欲していると思うが、わたしはこれのありがたみがよくわかっていない。のは、たまたまキングオブベンゾを転院一発目で引き当てたからなのか。
しかしこの白い錠剤を、わたしははじめて見た。数字の『1』が刻まれている。わたしが病棟でもらっていたのは終始0.5と印字してあったもの。いつもと倍量のエチゾラムを飲まされた。これだと、5錠で気絶できる寸法だ。
「どうぞ、先生続けて」
わたしは主治医にトークの続行を願った。なんの他愛もない話で、気が紛れるので「苦しい」という状態からしばし目を背けていられる。
そうこうしたり、突然弟に病室での会話の録音を頼もうとするなどをしていたが、話題は『入院するか?』ということになった。
そう、わたしは、元はと言えば今日ここに「入院するかしないかの相談をしたい」から来ようと考えていたのであった。
入院したいのは、このまま娑婆にいたら自殺に走ってしまいそうだったから。たぶん、それを止めて欲しかったんだね。
しかしながら、入院したくないのにもそれ相応の理由があって、週に2回しかお風呂に入れてもらえなかったり、トイレが汚いとか、嫌いな患者がいるとかでとにかく、またあそこに戻るのかと思うとほんとうに無理だった。
ので、なんか折り合いつくところでつくなら入院、そうでないなら自宅療養頑張ってって背中押して欲しかったのだ。
しかしうまく喋られないから、今日の診察室で述べようと思っていたいろいろな要求、それを列挙するということを忘れてしまった。
とりあえず今日のところは入院するけど、その後をどうすべきか……?わたしはしばらく粘っていたけどなんとなく折れてしまった。医者に何度も確認したが、救急車で運ばれてきてもわたしに「入院したいです」という意思表示があるなら任意入院だ、これは任意入院だと医者が暗示をかけるように言うので「入院します」と言った。
そうとなれば、病院から家族に連絡がいく。しかし、うちの親は、特に母のほうが。騒ぎ出して病院に問い合わせてきたら慌てて病院にわたしを連れ去りにきたりしないかと思って、自分から診察室で電話した。
でも自分一人じゃ救急車に運ばれておひさま病院に搬送されて今から入院になったなんて親に話すのが恐ろしくて、先生に間に入ってくれと頼み込んだ。
携帯には出なかったから職場の番号にかけた。職場の番号なんか知らないからグーグルで検索したら出てきた。繋がった電話に出た人は、よく知っている名を名乗った。いつも母が仕事の時のエピソードを面白おかしく話して聴かせてくれるかの古本さんではないか!
「こんにちは、わたくしそちらに勤めております三郎丸の娘です」と言うと
「棟子ちゃん?!」と古本さんが言うので
「そうです。いつも話に聞いております。密かにファンです」などと呼吸が苦しい中世間話をしつつも、母に電話を繋いでもらった。
このように、すぐ親の職場の人に取り次いでもらおう、と考えられるのは、病児にはすぐ保護者に電話をかけてお迎えの要請をするからである。わたしも何度か電話をかけなきゃならないことがあって、いかに的確な範疇内で症状を大袈裟に伝えられるか、思考を巡らせていた。だってあんな事務室の隅を囲っただけの医務室に寝かしつけておくよりもおうちに帰ってゆっくり休んでほしいから。
母が電話口に出た。早々に先生にバトンタッチして、状況を話してもらった。
話を聞かされた母は思ったよりも落ち着いていて、でも「びっくりした」「心臓が止まるかと」などと言った。救急車で精神病院なんて。自殺未遂に失敗して通報されたんだと思うに他ない。
母が一時間もしないうちにこちらに着けるというので、診察室の前の待機室でベッドに寝かせてもらい、仰向けになっていた。しばらくしていると母がやってきた。
「さっき春川ちゃんと会ったよ」と言う。「からあげ食べてた」
かわいそうに。ランチに遅れたのは誰のせい?
「もうびっくりしたよ」と母はわたしにお茶をくれた。そういえば、喉が渇いていたかもしれない。入院をすると言うと、当座に必要な着替えや物品などひとしきり母が自身で揃えて、持ってきてくれた。
わたしより必要だったものを覚えているな。『入院時に必要なもの』と言う表を見なくても、母はおおよその道具をほぼ揃えてくれた。惜しいのは時計ひとつくらいだ。これがまた今回の闘病生活で波乱を生む物体なのだが。
携帯をゆっくり扱う時間を与えられず。近くの予定を断ったり、職場に電話してみたり。母と長く話すフリして携帯を触らせてもらっている。
なんでこうも毎回大騒ぎして入院しちゃうんだろ。
このあとわたしは母と別れ病棟に挙げられてその日の夜を過ごした。布団の上で、まだ身体はきついなあと思いつつも特になんの問題もなく過ごせたのだと思う。だってもう、何も覚えていないから。
あ、スタッフさんにわたしのこと覚えてくれてる人がいたらちょっとおしゃべりしたいなみたいな、そんな感じ。
救急車で搬送されてるなうイェーイな写真撮れるメンヘラすげぇなって尊敬した日
2022年 2月28日(月) 入院初日
わたしは暗い部屋にプラネタリウム調のプロジェクターを天井に向けて点け、側にはトニン液の牛乳割りのためにカモフラージュで買ったシスコーンとかいうシリアルのサクサクチョコリングと大好きなコーヒー。
部屋で、届いたばかりのHHCを吸っていた。しかしなんとも、煙を吸えた感がなくて。ボタンを押しながらではないと煙が出ないらしい。
それでは、とわたしは思い切り煙を吸い込み、肺に溜め込んだ。
この様子を見守ってくれていたスペースでのフォロワーたちは喜んでくれた。上手く煙を肺に入れられたね、と。
しかしわたしは焦っていた。
わたしは喘息持ちだった。
このところ大きな発作も起きてないし、タバコを吸ってもへっちゃら。でもこの時の出来事で、わたしの吸い方ってただの"フカシ"だったのかも、って思った。
これまでに遭遇したことがないクソデカやば発作を起こした!と思ったわたしは焦っていたのかもしれない。焦るもなにも、呼吸ができないのだからなにも考えられない。
なんとか息を吸えるが、気管がくすぐられるかのような前作の時と似たような感覚があった。これで反射的に咳が出てしまうのだが、ここで苦しさに任せて思い切り咳をしてしまうと、その弾みでもどしてしまうのではないかと思った。わたしは、小学一年生の時から嘔吐恐怖症である。
しばらく呼吸ができず、なんとか吸い、控えめに咳をし、慎重に空気を吸い、というのを繰り返した。スペースで同席してくださったフォロワーたちも、なんだか様子がおかしいぞと思い始めたところであろう。みなが懸命に声をかけてくれたり鈴を鳴らして安らぎを与えようとしてくる。
喘息患者にはわかると思うが、『喋る』という行為にはかなりのエネルギーを使うのである。ひどい発作の時には、しゃべれない。ようやく指が動くようになりツイートでヘルプを出す。これはもしかして救急車モノかもしれないぞ?と思った。
しかし、救急車を無闇に呼ぶのは良くない。
ほんとうに人命に関わる人に救急車が回らなくなってしまうかもしれないからだ。
なので、第三者から指示を仰ぎたかったのだ。喘息なら場合によっては発作が時間経過とともに少しずつ良くなることだってある。いや、こんなにひどい発作に見舞われたことはなかったんだけどさ。
救急車が必要かの相談ダイアルがあるのをわたしは知っていた。常識だよな。
でも、まさか自分がそれをかける側になるなんて思ってもいなかったから、呼吸困難に陥るとその番号がわからない。
ネットで検索すると#71119という番号がヒットしたので発信したいのだが、iPhoneでのダイアルボタンの出し方がわからないために、わざわざ電話帳に登録した。
かけてみたら、何と最初にわたしの発信を受けたのは生身の人間でなく機械の音声ダイアルであった。
は?救急が必要かもしれないのに?
音声が終わるとようやく肉声の女性が対応してくれたが、やたらと個人情報を聞いてくる。
違うんだ、救急車を呼ぶべきかどうかを仰ぎたいだけなんだよ。だから「それは救急車を呼ばずに様子見てください」とかせめて「救急車の要請が必要ですので、個人に関する情報をお聞きして救急に伝えていいですか?」みたいな尋ね方ならわかるよ。しかしね、アンサーのないまま苦しくて喋れないわたしにあれこれ訊いて喋らせようとする。
「もういいです!」
自分が苦しくて喋れない状況にある、と分かってもらえなくて涙が出てきた。
もうこれは指示を仰ぐより救急に直接「この程度で救急車を呼ぶ必要はありますか?」と尋ねようと思った。
はじめて生の「消防ですか?救急ですか?」を聞いた。小学校の社会科の授業きりだよ。
でもここでも状態がどうこう、というのを話して(身体の状態とどこにいるか、周りに人はいるのかなど)と名前住所年齢を聞かれて……違うんだ!わたしは救急車を呼んでもいいかどうかが訊きたいんだよ。
今思い返すと、パニクってたのかな。
この、冷戦沈着と職場では評価されているわたしが?
救急に繋げた電話も切ってしまったわたしは、かかりつけの精神科に電話をかけた。ここなら客観的に救急車を呼ぶべきか判断してくれそうだし、喋れなくて救急に電話ができないんです、と言えば病院が手配してくれそうだろ。
今思い返すと何で傲慢な考えなんだろう。精神科の受付や事務の人々は患者の家に救急車を呼ぶために存在しているわけじゃないのに。
しかし、ここにはわたしの氏名生年月日年齢性別住所既往歴、救急が必要にしてそうな情報は何でも持っているだろう?だからここに頼るのが賢い選択だと、その時のわたしは思ったんだよ。
電話をかけたら受付の人がもちろん出たと思うさ。いつも窓口で見送ってくれるあの人かどうかはわからないけど、取材に繋げましょうかと言われたから、わたしははからずもはいと答えてしまった。
主治医と電話越しでこんなにクリアに話したのははじめてで驚いた。受話器の向こうにはるきゅんがいるんだ。
前に熱が出て受診をキャンセルして薬だけ出してもらった時は、おそらく内線越しに通話されて、声がすごく遠くて機械をいくつも経てわたしの耳にはるきゅんの肉声が届いてるんだな、という気持ちになった記憶がある。
わたしの主治医は天才なので、すぐに「今ヒューヒューって音がしてないね」と言った。
このヒューヒューな喘鳴といって、喘息の発作が起こった時に鳴る独特の胸の音である。発作がひどく気管が狭くなると息の抜ける音が胸からヒューヒューと、周りにいる人間に聞こえるほど大きな音で鳴る。わたしはてっきり喘息のバカデカ発作が来たと思っていたけれど、ここではじめて喘鳴がないことに気が付かされたのだ。つまり、これは喘息ではないって先生が言っているのだ。
どういった経緯でこのような呼吸になってしまったか話した。
水タバコを吸っていて、思い切り吸い込んだら咳込みが止まらなく呼吸ができなくなって、喘息かと思ったのだと。
そうこうしているうちに救急隊の人が来たらしくずっと家の中にピンポンピンポンと音が響いた。そういえば、呼吸困難になってから身動きを取ったことがなかったのに。わたしは立てるかしら、と不安に思いつつも主治医と繋がっている携帯を持って玄関の鍵を開錠した。ブルーの防護服を着た救急隊員が三人いた。わたしはここで自分の足で立つことを諦めたのか?玄関に蹲った。
一人がわたしの指をあの洗濯バサミみたいな器具を使って酸素と脈でも測ってんだろうか。
「三郎丸さん、酸素の量は大丈夫です」蹲ってるわたしにそう声をかけた。
この人以外の二人は、わたしの携帯越しに主治医と話をしていた。たぶん、はるきゅんがわたしの状態を詳しく説明してくれているんだ。
コロナ対策か「寒いので扉閉めて入ってください」と隊員たちに行っても応じない。外の冷たい風が家の中に入ってくるがために、わたしは涙も乾く暇も呼吸もする力もなくベッドに戻って軽い毛布を一枚羽織ってきた。これを見て、余計に救急隊員たちはわたしが身軽に動ける人間だと思ったのかもしれないな。呼吸困難だ、って何度も要請出してるのに。
救急隊員Aが「保険証ありますか」とほざいた。そんなもん、緊急時にいるか?家族がいて代わりに動いて探してくれるならまだしも。わたしは朝なのに電気もつけないで暗い部屋の奥からハァハァ言いながら出てきたのだぞ。
保険証なんて!最近出かけたのはどのカバンだった?
わたしはカバンを探そうとしたけど、頭が回らなくて自分が直近で外に持ち出したバッグがどれか思い出せなくなったのだった。わたしは考えることを諦めて、すこしベッドの周りを右往左往した後で「どこにあるかわかりません」と言った。苦しかった。喋ったし、動いたから。
また玄関に戻ったら、どうやらわたしをこの家から出して助け出してくれる手筈をしてくれるみたいだけど、「マスクがないと救急車乗れないからね」とマスクを取ってくるように言われた。
もうわたしは歩きたくないんだ!呼吸ができないから!!
わたしは「もうなんでよ!」「なんで誰も手伝って助けてくれないの(コロナだから無理なのは分かってるけどきついわたしの代わりに誰か荷物探し出す手伝いとか、手貸して歩かせてくれたりして欲しかった)!」と泣き喚きながらまたベッドに舞い戻って不織布マスクを探し出した。緊急なんだから、傷病者に装着するマスクくらい救急車に乗しとけよ。
救急隊員Aが一応背後についてきてくれて、「上着も持って行きましょう」と言ってくれた。わたしが毛布を被ったまま玄関に向かおうとしたら「毛布は置いときましょうか、車内にも毛布はありますので」と言われた。わたしはまるで強盗に銃を突きつけられた銀行員のごとく両手を上げ、その手から握っていた毛布の裾がパタリと落ちて、台所の横というヘンなところに放置されてしまい、わたしの家には『非常事態があった』痕跡がひとつ残された。
玄関までの廊下を歩くと「家の鍵はどこですか」と問われた。わたしは鍵を指さした。
「そこの黄色いヒモのやつです」
わたしは24歳のいい歳したババアであるが、他に特に鍵を所持する習慣がないために鍵っ子の小学生が首から紐で鍵をぶら下げているあのスタイルを未だに貫いていた。
救急隊について行き、上着を一枚(極寒に備えてニ枚持ち出した)羽織らせてもらう。救急隊がわたしの鍵で家を施錠した。ガチャリと回し終わった後で、彼はわたしにこう問うた「火の元は大丈夫ですか?」
は?鍵閉める前に訊いてくれよなタコ。
わたしはHHCのあの、アイコス本体みたいな方(呼び方がわからない)を充電器に刺しっぱなんじゃないかと思ったけど、また家の中に戻る体力なんかなくて。「大丈夫です」と答えてしまう。それが後ほどの診察室編でわたしを翻弄するのだ。
わたしはこの人たちをなんだと思ってたんだろう。そして悪いフォロワーの病院のせいで救急搬送には特別緊急車両運搬具利用料みたいなものを取られるもん、3万は取られるかと思ってた。フォロワーの病院が救急治療料みたいなものをバカ高く設定して悪徳商法してるだけだった。
「わたしお金持ってません」
わたしは抵抗を始めた。「だから救急車には乗れません」
だからわたしはマンションの下に着いて、ビカビカに赤いランプを点滅させてる救急車を目の前にして抵抗した。
「お金ないから払えません。救急車代払えない」
泣きながら喚いたのだ。
視界のフチに、様子を気にしてるんだろう井戸端状態のおばさま二人を捕らえたりする。マンションが数棟まとまって建ち、救急車が来ると「なんだ?」と野次馬精神丸出しの住民がワイワイとベランダから出てくるのをわたしは玄関から見てる。ヘンな比喩とかじゃなくて。うちの玄関は第参棟から丸見えなの。こりゃ近所で噂になるぞ。
「タクシーで行きたいです。救急車には乗りたくない!わたしはお金が払えないから!!」
これでは知的な問題の多い精神疾患者に見えて同然だ。
ちなみにここまで歩いてついてきたのは特に担架もなにも持たずに現れたからです。ほんとはおぶってでも自分で歩きたくなかったけど、自分で歩かざるを得なかったのだ。
救急車といえば担架に寝かされて寝床をスライドして乗車させられるイメージが多いが、わたしは自分の足で救急車に踏み込み乗り込みシートに座った。
座るとまた名前や年齢生年月日を聞かれた。
救急にもすでに話したし電話の主治医に聞いてから喋るのつらいから、って救急隊員Aに抗議したが「ここで言わないと病院に出発できないよ」と言われたのでまたここでも個人情報セットの要求かよ。
精神科がわたしの過呼吸を診てくれるそうだと聞かされた。なのでわたしは、いつものおひさま病院搬送で良い、と脳死で答えていた。どう考えても呼吸器診てもらったほうがよかったと考えろ。なんであんな爆発咳が起こったか、喘息持ちなら詳しく調べようとしろよ。(それが自然な反応だったんだって、今ならわかるけど)
私を乗せた救急車は、わたしが名前生年月日年齢住所、そして何故か血液型も添えて。わたしが自己紹介をすると、我がおひさま病院にようやく出発することになった。